身体障害者の時の話

1988年位ですかね、小学校4年生の時に「股関節脱臼症」という病気になりまして、股関節が痛くなり、レントゲン撮影をし、一年間入院しました。

原因は不明で、今と違って病院は冷房が21時前後に切られてしまい、真夏の入院生活でした。その時に整形外科で足を固定する人も居ました。車椅子で臨床医の方が来てくれて、鉄パイプ二本の上をゆっくり歩いていました。リハビリは確かに過酷かもしれませんが、ベットで寝ている時が辛く、シャワーもなんと一ヶ月に一回程度でしたので、辛かったです。

車椅子で生活をしていて、片方のブレーキをかけて、片方の車輪を回すというのが不謹慎ながら楽しくてたまりませんでした、問題は病状で毎晩右足が痛くなり、小学生ながら痛いのが辛かったです。

車椅子での生活も考えたのですが、主治医の先生が厳しく、車椅子ではなく、義足のようなコルセットをつけて、松葉杖でその義足で生活が出来る様にリハビリがはじまりました。「病室が暑いので、毎日リハビリやってください」と頼んだですが、無理は禁物だったらしく。リハビリ室の冷房に惚れました。

やっと退院になり、当時バリアフリーというのは電車のホームとドアの位置が同じ位で階段で昇り降りというのが当たり前でした。とは言え、車椅子での生活も病院の中や外で少しあったのですが、障害者スポーツ大会というのもあり、「先輩」に車椅子の秘伝などを習いましたが、一番大変だと感じたのは目が見えない方が一番大変だと感じました。

しかし、今度は左足に転移をしてしまい、思わず泣いてしまいました。学校のクラスから二年も遠ざかる事になり、親に叱られながら勉強を教わっていました。一番辛かったのは、親に叱られた事でしたが、教頭先生が直接来てくれた事が大変嬉しい反面、小学生にとっては「副社長」が心配して来てくれた気分で学校を首に成るのではとヒヤヒヤしました。

結局、復帰しても、クラスでは馴染めず、勉強では親以外の家庭教師の方が良かったと思います。しかし、問題は、毎晩足が痛くて眠れないという事でした。

結局、勉強が面白いと感じたのは高校からで、数学の先生のお宅まで言った事は良い思い出でした。

今でも、階段になると重い荷物があると、ついつい避けたく成ってしまいますが、階段はゆっくり登れば疲れないと考え、バブルの時はエスカレーター並に早く皆登って居ました。

しかし、医師からは両足の長さが少し異なり長距離歩行は無理であるというのは、段差があると転んでしまい、ひどく親に叱れました。あるパイロットの方に「足を引きずっている」というのが発覚してしまい。スポーツ関係は結局あきらめました。

確かに、今思うと「日本のバリアフリーは遅れている」等の話はありますが、色々な建設費を考えると厳しいものです。

当時車椅子から落ちた時に、バリアフリーで便利なエレベーターが止まり、土手に落ちてしまった場合、車椅子の人は文句など言っていられません、直ぐに行動をうつさないとならないのです。仮に30秒でなんとかしなくては成らない場合も、二足で歩ける人と同様です、時間制限一杯に自分で這ってでも安全な所に行かれるかどうかというのが一番重要であり、個人の危機管理能力が問われます。ですから、最初から危険な場所には行かない、危険な事はしないというのが自らの結論でした。

とはいいつつ、駅の券売機で、ボタンに手がとどかない車椅子の方を観ると、「いくらの区間ですか?」と金額のボタンを押して、エレベーターまで一緒に乗りますが、礼を言われた事はなく、「不便は本人が一番わかっているだろう」と私は理解しており、礼を求める事はしません。これから電車に乗る時まで、ホームから転落したら大変な事になる、緊張の顔立ちです。つまり全てがバリアフリーという訳ではありませんが、一部の団体が公演をやろうと、今目前にある危機にはなんの足しにも成らないのです。

航空機に搭乗するので在らば、空港の保安検査やトイレ等の設備を調べ、もし航空会社に電話して、座席に座るにはどうしたいいか?機内でトイレに行きたく成ったら?とかなりのシミュレーションをして、万全にする。

しいて言えば、問題なのは全ての障害者雇用の問題で、会社が受け入れてくれるかどうかという点です。こればかりは、会社の施設や環境にもよるのでこの先この困難に支援は望みたいと思います。